ABOUT
店舗紹介
豚のホルモンのうまい居酒屋「明月」は
名鉄東岡崎駅北口から、西へ200メートル。徒歩3分の場所にあります。
ご予約は2名様から承っております。
indoor view
画面をスクロールすることで店内が360度見ることができます。
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入口入るとすぐ左手に焼き場があります。女性スタッフが元気に串焼きを焼いています!
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1Fは、カウンター席です。オーナーと絡みたい人はこちらの席がおススメです。
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2F、3Fはお座敷になります。18名~25名(ちょっときついけど)ほど入ることが可能です。
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豚さんの暖簾が目印です。ぜひお仕事帰りに「おかえり」下さいね。
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東岡崎から西へ徒歩3分。明るいスタッフと大盛りのおいしい食事でお待ちしております。
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明月のお客様は明るい楽しいい方がいっぱい!いつもありがとうございます!
東岡崎居酒屋 明月 オーナー
藤原 修司
山椒は小粒でもピリリと辛い
幼少期は父の当時の仕事関係(パチンコ屋の釘師・経営)で各地を転々とする。
5歳から7歳までの2年間、岡崎市美合町で過ごす。
当時流行っていた「ろばた焼き」を父が開業し、市内でも有数の人気店に。
しかし家主が自分で開業したくなり、契約更新できず一旦廃業に。候補地を探す。
僕自身は小学二年生にも関わらず、親不在の家には帰らず、子分(皆同級生だが従業員の子供やお客さんの子供)を引き連れて深夜徘徊、窃盗、喫煙などを繰り返す。
当然学区で問題になり、警察沙汰に。
父はろばた焼き移転を諦め、環境を変えることも考慮し、市内中心部へ引越す。
父親の仕事は元の釘師へ。
その後すぐ両親は離婚。
年子の姉、まだ3歳の4つ下の弟と共に父親に引き取られる。
環境が変わり、無難な義務教育を過ごすも、物足りなさは拭いきれず悶々と。
高校1年でバンド活動開始。
高校2年で役者になろうと、突如志す。リバー・フェニックスになろうと誓う。
名古屋の俳優事務所オーディション合格。
が、父親と激しい口論の末、契約書を自ら破る。(親父の言い分は、お前は見世物じゃねー!)
18歳を過ぎれば親の承諾書がいらない。あと一年待てば!と勝算があった。
しかし、周りの大人達の説得交渉に敗れ、高校卒業と同時に滋賀県内のホテルへ。
夢は寝てから見ろ
顧客管理部門洋食調理課へ配属。
若気の至り。
あまりの勝手さ加減に、ホテル始まって以来の馬鹿と言われる。
当時の彼女(職場恋愛)に言い寄ってくる男が多く、負けたくはない!と突然仕事に奮起する。(男の悲しいサガ)
メモ魔になり、昼間聞いたフランス語の単語はすべてメモ。帰宅後は辞書と睨めっこ。
寮に帰ると缶ビールを持って先輩の部屋へ。次の日の段取りを聞き出す。
その後ホテルに忍び込み、上司の本棚からレシピを写す日々。
すぐにホテル始まって以来の快挙を量産し始める。
同期を指示する(朝食バイキングなど)立場にもなり、当然仕事も楽しくなる。
でも不思議なもので、彼女にはキレイにフラれる!(こんなもんだね!)
疲れ果てて部屋に戻ると友達からの留守電が。リバー・フェニックス死去・・・。
翌日、上司との激しい喧嘩後(理由は些細なこと)、飛び出すように上京(世田谷区)。今度こそリバー・フェニックスになる!
友達との共同生活をしながら、
いくつかの事務所オーディション落選。
数々のドラマ、映画のオーディション落選。
所持金(当時同居していた友達と部屋中かき集めて)380円。
大学で埼玉にいた姉に連絡。所持金(公衆電話代を差し引き)320円。
金を借りたらまた戻ってくる。友達にそう伝えて所持金320円を握りしめ、いざ姉と待ち合わせの池袋へ!(池袋にて何だかんだと所持金0円)
しかし待ち合わせ場所が分からず迷子。
1時間ほどモーレツに池袋徘徊。
奇跡的に姉の友人に発見される。(あんたに似た顔の子がいるよ!)
予想通り、資金調達交渉は見事失敗!
岡崎市に強制送還。
岡崎に帰還後は短期間に様々な職場を転々。
言えないような業種も多数。
働けど、働けど、我が暮らし楽しくなる
父親の勤めていたパチンコ店が廃業となり、父親と居酒屋開業を目指す。
1995年2月- 愛知県岡崎市明大寺本町4丁目26に『居酒屋 明月』を開店。
当時の客単価は1000円前後。
来店人数一日に10人以下。
鳴かず飛ばずの日々を過ごす。(以後十年間給料なしの暗黒の日々。でも今思えばまるで丁稚奉公のような無給の10年間は良い下積みになった。
お金の重さがわかるようになった。)
余りの暇さに、父との大喧嘩の毎日。親子ゲンカがちょっとした名物に。(親父の経営にいつも不満爆発!)
何とかしようと自分だけでランチ営業や深夜営業、何でもするようになる。(それなりの結果を出すが近所の苦情や親父との喧嘩で挫折)
2001年- 現在の家内と知り合う。あまりの貧困状態に、結婚も躊躇する日々はその後4年に登る。
2004年- いつまでも煮え切らない僕に彼女(現家内)ブチギレる!店のこともお父さんのことも全部私が支える!
女性にここまで言わせてはいけない。深い反省と燃えるような想いにスイッチが入り宣言。
「自分の中にあるすべての才能を金に変えてやる!必ず皆が羨むような生活をさせてやる!」
今まで以上に猛勉強開始!
人生は山あり谷あり。
でも谷間には綺麗な花が咲いている
2005年- 父親の入院を機にクーデター敢行。
親父不在の間に、一切のお金の流れを掌握。
焼き鳥のタレや客層、経営方針も一変させる。
案の定、みるみるジリ貧状態に。(この頃は本当に辛かった。小資金ながら震える思いで小さな自己投資を繰り返した)
同年、焼き鳥から豚の串、「やきとん」へと主力の変更を試みる。
親父も無事に退院。(退院した親父は怒り狂ってたな~。しばらく怒りが収まらなかった。当然だけど)
結婚し、家内も専属で加わったことで新体制としてスタート。
結婚生活のスタートは情けないことに、指輪なし、式なし、新婚旅行もなし!
「何も無いことがふたりの指輪だ!!」とうそぶく!(今だに指輪なし!)
二人で市役所に婚姻届を提出し、そのあとすぐ店の仕込み!
しかし、周りの応援や努力の甲斐も有り、業績を伸ばし始め、知る人ぞ知る名店として噂されるようになる。
2007年- 豚もつ鍋をメニューに加える。
当初は資金がないため冷蔵庫増やすのも安い店を探し、ドキドキブルブルで数万円を支払うほど。
しかしながら豚もつ鍋はたちまち人気を博し、主力商品に。その勢いのまま連日賑わう繁盛店へ。
ありがたいことに、父も文句が言えない状態に大繁盛。
クーデター、ここに勝利宣言!
2009年7月- 店舗の賃貸契約終了により同市明大寺本町4丁目27へ移転。屋号を正式に『東岡崎 明月』に。
2009年9月- 『東岡崎 明月』開店。主力商品を高々と豚もつ鍋に。
開店後まもない10月~11月の数日入院。首にできた腫瘍切除。成功!
新店舗の売上はうなぎ登りで有頂天!
2010年春- 家内の懐妊が判明!かなり気合が入る!が、
2010年5月- 売上が急転直下!
豚もつ鍋を主力としたために気温の上昇とともに、売上は綺麗に下降!
もがく日々。ぎりぎりの状態で冬を迎える。
2010年11月- 長女誕生!売上は下降線。が、
気温の下降とともに、売上上昇!(でもそれも長くは続かない!)
2011年4月- 東日本大震災後の影響と気温の上昇とともに、見たことないくらいの売上直下!
極貧状態始まる。
2011年6月- 追い打ちをかけるように親父の癌発覚。緊急入院。3ヶ月後あっけなく死去。
(この頃は経済的にも身体的にも本当にキツかった。一人になるとよく泣いたな~)
新店舗の借金数千万。従業員、乳飲み子を抱え、死んでしまいたい毎日。高いところに登ると飛び降りたくなる衝動頻発!
店中のお金をかき集め、従業員の給料を作り、借金を返済し、残ったのは50十枚ほどの千円札。
千円札で分厚い給料袋を家内に渡すと破顔するほどの笑顔。
「こんなに頂いていいの?!」
しかし中身を見て号泣。
「お疲れ様です。ありがとうございます。」
本当に辛かったな~。
情けなかったな~。
苦しかったな~。
でも、めげない!アホだから!
気温の影響をなくすため、人間力アップ店舗力アップを図る。メニュー構成と経営方針の転換。
もがき苦しんでいる時、衝撃的な言葉に出会う。
「経営者の人格以上にモノは売れない」
深く反省するとともに、思い上がった気持ちを粉砕。
藤原修司、振り出しに戻る。
2012年- 勉強と数々の助言。お客様からの応援。従業員みんなの努力、たくさんの出会いの中で、少しずつ売上に反映されてくる。
同年夏。初めての負けない夏を過ごす。今一度、お客様や仲間たちへの感謝を取り戻し、確信を得る。
“商売とはお客様とのご縁を深くして行く事”だということに気がつく。ご来店くださったお客様が全てです!
2013年- たくさんのお客様。頑張り屋で楽しい仲間達。家族に支えられ、元気に張り切って現在に至る。
『人は己に克をもって成り、自らを愛するをもって敗るる』
『清く明らかなるものは陽として上にあり、これを勝ちと名づく』
『善因は善果に通ず』
『万物は相対的である』
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